マリータウン
マリーは典型的な地方都市で、カスピ海横断鉄道プロジェクトの大きなハブ拠点として1880年代にロシア帝国陸軍により建設されました。青銅器時代にはマルグシュ、中世はメルブとして知られていました。
中央バザーはぜひ訪問してください。でも古い石の構造を注意深く見れば、皇帝の浴場やティーハウスの遺跡を見つけることができます。ロシア正教のプロコフスカヤ教会や
アートギャラリー、大きな新しく建てられたモスクなども訪れる価値があります。
マリー博物館
2009年新しい場所にオープンされた八角形の印象的な建物。博物館にはマルグシュ青銅器時代のBMAC発掘現場で見つかった工芸品の大量のコレクションがあります。
歴史展示ホールだけでなく、博物館には地方の植物や動物部門、素晴らしい民俗学ホール、またこの地方の遊牧民の暮らしを紹介する部門では、家具雑貨、ジュエリー、刺繍、絨毯、楽器、パオそして飾りのついた馬やラクダを見ることができます。
メルブ歴史公園
メルブはムルガブ川の昔の土手に位置し、この地方のシルクロードの最も重要なハブ拠点で、特にセルジュク朝のサンジャール総督の下で、この地方の首都として繁栄しました。
メルブというのは5つの集落の集合名です。紀元6世紀から18世紀までの異なる時代に様々な異なる名前で存在していました、全体で120ヘクタールあるメルブの遺跡は1999年からユネスコ世界遺産に登録されています。
メルブ - エルク・カラ
エルク・カラでメルブの都市化の過程の初期の段階を見ることができます。最も小さい初期の遺跡で、アレキサンドリア-マルギアナとして知られ、広さ20ヘクタール、頑丈な壁と堀によって囲まれていました。
唯一の入口への道は傾斜があり直接都市へと続いています。ジョウルジーナ・ヘルマンが「それはメルブの遺跡の中で最も印象的なものだ」と記述しています。都市の壁は初期のイスラム時代まで継続的に強化されましたが、エルクもその拡張されたギャウル・カラも徐々にすたれて行きました。
メルブ - ギャウル・カラ
セルーシド朝に、現在ギャウル・カラとして知られている二つめの城壁で囲まれた都市(紀元前4世紀)が加わります。専門家たちはそれをアンチオキア-マルギアナであると信じています。360ヘクタールの区域の都市の計画はヘレニズムの碁盤の目のパターンの影響を受けています。
中央には現在ではあまり目立たないモスクの遺跡があります。南東の角には小高い塚があり、仏教の仏塔と僧院の遺跡を覆っています。重要な発掘品は現在アシガバートの国立博物館に収納されている「メルブの花瓶」と粘土製の仏像の頭部です。
メルブ - スルタン・カラ
セルジュク朝の首都は、アルク(政府機関のコーナー)やシャクリスタン(城砦)、ラバート(バザー)からなり、面積と人口でダマスカスやエルサレムを超えると考えられています。
今日、セルジュク朝の城砦はスルタン・カラと呼ばれています。それ以前に立っていた二つのものと隣接し、楕円形で、広さ約630ヘクタールあります。そのレイアウトは今でも空中写真で見ることができます。メルブの都市遺跡の中で最も重要なものがこの中世のセルジュク朝都市です。
メルブ - アブドゥラ・カーン・カラとバイラマリ・カーン・カラ
中世のスルタン・カラの遺跡の南方数キロメートルの所に、ポスト中世の都市があります。現在アブドゥラ・カーン・カラとして知られ、ティムール朝がこの地を治めていた時代に作られました。
この地域で最も強く最も良く要塞化されているものの一つであるにもかかわらず、アブドゥラ・カーン・カラはその前に作られたものより重要な役割は果たすことはありませんでした。しかしその城壁は非常に印象的なものです。バイラマリ・カーン・カラ(19世紀)はメルブの最後の粘土製の城壁遺跡ですが保存の状態は良くありません。
メルブ -スルタン・サンジャール廟
メルブ見学の中でのハイライトはスルタン・サンジャール廟です。現在も周囲の風景の中で目立っている高いレンガの壁は、当時はキャラバンにとっては目印の役割を果たしていました。
この門のない中央に頂塔のある建物は典型的なホラーサーン朝の建築様式です。霊廟はサラハスのアツィツの息子、モハメドにより建てられました。この名前は霊廟の頂塔の下の円形の浮彫の中に書かれています。
メルブ -シャリアル・アルク
セルジュクのスルタン、サンジャールの治世下、シャリアル・アルクは作られました。
それは城砦の中にある城砦で、城壁と堀により防護されていました。その中には重要な政府と軍の建物がありました。
それらの建物の一つに今日「ケプテルクハナ」と呼ばれるものがあり、興味深い波形の構造で、城砦の中で最も良く保存されている建物です。その壁はまだ4.5 mの高さで残っています。しかしその機能は疑問です:図書館がハト小屋になってしまったようなものです。
メルブ -イブン・ツァイド廟
セルジュク朝時代の他の記念碑は、注目すべき内部装飾のあるモハメド・イブン・ツァイドの霊廟です。その内部は不明のままです。
この地方に残る伝説ではモハメド・サィード・イブン・ツアィド・イブン・アリ・ゼンナル・アベドン・イブン・アル-フセイン・イブン・アリ-タリブは著名なシーア派の教師で預言者アリの直接の子孫だと言われています。彼は霊廟の建てられる4世紀前に亡くなったにもかかわらず、彼の名前は霊廟の中の碑文に書かれています。
メルブ -ユスフ・ハマダニの神殿と巡礼遺跡
最も重要な建物群の中に最近建てられたモスクとミナレット、神殿、ユスフ・ハマダニ(1140年没)の墓所、ティムリッド・イワン(門)、祈祷殿、巡礼者の宿泊施設があります。
ユスフ・ハマダニは12世紀の有名なスーフィー教徒でナクシュバンディ会を設立した中央アジアのスーフィー教師グループの第一人者でした。彼は1048-49年に有名なフマダンのイラン人の町ベゼンディルドという小さな村落に生まれました。
メルブ -キィツ・カラ遺跡群
ササン時代にさかのぼる二つの際立って巨大な記念碑が今も古代メルブ遺跡の中ではっきりと見ることができます。大きなキィツ・カラと小さなキィツ・カラ(6-7世紀)です。
チュルク語の名前(全てのチュルク語では「キィツ」は「少女」を意味します)はおそらく実際の構造の起源や機能を反映していないと思われます。これらの長方形の粘土の城「コシュク」は興味深い建築で、外側は波形の壁と様々なアーチ形天井で装飾されています。
メルブ -アシュクバビ神殿
預言者モハメドの死後からのオリジナルの墓所で、アシュクハビ(預言者の仲間/運動家)がイスラム信仰の普及を助けました。
二つのアシュクハビの墓はアル・カカム・ギファリ(670年没)とブレイダ・アル・アスラミ(681年没)のものです。彼らが亡くなった時に墓所が作られました。15世紀(ティムール朝時代)にアイワンが追加され、19世紀にグルイエマル・カーンによって墓所の上に霊廟が建てられました。
メルブ -氷の家
様々な氷の家(15世紀ティムール朝時代)がメルブの周辺の農地の中に残っています。これらは地上にあり、ソルドバと呼ばれる貯水施設とは別のものです。
これらは粘土製の風変わりな円錐形の構造で、直接地面の上に建てられ、雪を堅く詰めで保存しました。本来の高さは想定できません。
マルグシュとゴヌール・デペ
1971年から考古学チームが、メソポタミア、エジプト、インド、中国に次ぐ第5番目の古代文明の中心の可能性のある重要な発掘をしました。
紀元前2千年にトルクメニスタン南部のコペットタグ平野のオアシスから、ムルグハブ川のデルタのオアシスへ居住地の中心が移動します。ゴヌール・デペは「マルグシュ」の中心で、アフガニスタン北部のバクトリアと直接関係を持っていたとされます。
タルクハタン・ババモスク
タルクハタン・ババは、ヨロタンの町の近くのムルガブ川近くに位置し、複雑なレンガ装飾のモスクの名前で、セルジュクの治世の全盛期の1095年に建てられました。
モスクはこのスタイルの建設の絶妙な例と考えられていて、セルジュク建築の優れたモスクの中で保存状態の最も良いモスクの一つです。ミステリアスな族長タルクハタン・ババの墓所はここにあります。
アフン・ババ・マドラサ
近くにはアフン・ババがあります。それはマドラサ(学校・19世紀)で、中庭を囲む正方形の建物のそれぞれの側に10の丸屋根の上に小塔が立っていることから、キィルク・グメツ(または40の小塔)と呼ばれています。
アフン・ババ・マドラサの名前はこの地方のマラ-教師の名にちなんで付けられました。マドラサはメルブの中心からサルタンベント・ダムへ続く中世のシルクロードの途中にあります。周辺の村に住む地元のバルーチ語を話す人々がここにやってきます。
サラハス・ババ廟
オールド・サラハス(紀元前6世紀-紀元19世紀)はトルクメニスタン南部の最も大きな古代遺跡の一つで、サラハス近郊のテジェン川の上流に位置する都市遺跡です。
サラハスは豊かなオアシスの中心で、シャクリスタンと広大なラバトが城砦で守られた、メルブとニシャプール間の交易の町でした。シャクリスタンの中には1024年に建てられたアブル-ファズル(サラハス・ババ)の霊廟があり、サラハス建築学校の傑作です。
イェケデシク洞窟群
イェケデシクの洞窟群はタグタバザーの近くにあり、マリーからタフなドライブで8時間かかります。洞窟はカラビル高原の上、ムルガブ川の右側の急な土手に沿って伸びています。
周辺の地上調査でムルガブ川の右手の土手全体に沿って同様の洞窟の数が分かりました。それは隣国のアフガニスタンまで伸びています。洞窟はおそらく仏教遺跡群で
隣国では多くが残っています。